“サボテン”(原本改訂版)20200527

 

 

「いや! いや! もう…やだ… やめて…お願い…やめて…」


女性スタッフの突然の声に部屋を飛び出した私が目にしたのは
廊下に立ちすくみ顔に両手をあて肩を揺さぶり泣き続ける姿でした。

私と一緒に部屋を飛び出した数名のスタッフに気付いた彼女は

「ご…ごめんなさい…何でもないんです…ちょっと…自分が抑(おさ)えられなかっただけ…なんです…」

そう言ってひとり階段を駆け下りて行ってしまった。
もうひとりの女性スタッフが後を追い…階下(かいか)に消えていった。

彼女は去年、派遣の会社から折り紙付きで私の勤める会社に来てくれた才女…。
フランスの某(ぼう)有名大学を主席で卒業したと言う…。

私の知る限りの彼女は頭脳明晰(ずのうめいせき)・解析力(かいせきりょく)・決断力…等々すべてに於(お)いて私も舌を巻くほどの
働きぶりで幾度と無く問題に対するアプローチや洞察力(どうさつりょく)に救われたことだろうか…。

そんな彼女が見せた僅(わず)か数十秒の出来事に私たちは何の言葉もかけてあげることが出来なかった。
幾週間にも渡る徹夜に近い山積みされた仕事…出口の見えない実験・議論の繰り返し…。
関連会社やコンサルティング会社との打ち合わせや相談・交渉に飛び回る私は
彼女に対しての絶大な信頼の元で,その間の社内進捗(しゃないしんちょく)を任せていた。



「大丈夫? 申し訳ないけど…明後日,戻ってくるまでに…」


「今週中に提出しなきゃいけない書類…ここの部分のデータ検証ってやれる?」


「もう少し…具体的にならないかな?…噛み砕いてくれるといいんだけど…」


「今夜はちょっと遅くなりそうだけど…いいかな?」



彼女に対して投げかけた…そんな言葉の数々。



「はい! 大丈夫です」


「わかりました! やってみます」


「そうですね! 30分待っていただけますか?」


「わかっていますよ! こんな状況ですから覚悟は出来ています」


彼女はいつも即答し、笑顔で自分の席に戻り…ちょっとだけ袖(そで)をまくり…仕事を続けていた。
そして時間通りにちゃんと“その応(こた)え”を持って来てくれていた。

「彼女ってすごいですよね!!」

スタッフからの感嘆の声を何度聞いたことだろう…何度同じ溜息(ためいき)をついただろう…。
そんなこんなで……いつかしらか彼女へ寄せる信頼と負担のバランスが崩れ始めていたとも気付けず…。


「いや! いや! もう…やだ… やめて…お願い…やめて…」


私の頭の中で彼女の声が…表情が何度も…何度も…何度も何度も響き続けた…。
彼女は翌日から会社を休んだ…「風邪の為」という休務届けが提出された。
その日から私を含めスタッフの誰もが変わった。
彼女のことを口にする者は誰もいなかった…ただ黙々と個々(ここ)の仕事をこなし続けた。

ひとつ変わったことがあった…あがってくる結果に対しての見解が…目的意識が明確になっていた。


「本質的な問題は…ここですよね! 何処がずれてるのか考えてみたんですけど…」


彼女がよく口にしていた言葉がスタッフの中で“活性化”していた…。
ありとあらゆる可能性の中から導き出す答えは幾重(いくえ)にもなった面紗(ベール)の中から
外郭(がいかく)を捉(とら)えようとするもの…だから個々の主観や期待度で幾枝(いくえ)にも派生してしまい…
抽象画の中から感じ取る…或(ある)いは…騙(だま)し絵の中に入り込み…見つけたつもりの“答え”
信じる“もの”に理由をつけ…その“もの”をベースに次のステップを踏もうとする…
彼女はいつも…そんなスタッフ達に“警鐘”を鳴らし続けていてくれた…。

“想像から導き出す答えは文学の世界…現象や知見(ちけん)から導き出すのが物理の世界”

幼い頃…母親から言われた言葉を思い出した…。

「国語はね…答えは幾つもあるんだよ…どう思ったのかを書けばいいだけなんだから…」
「算数はね…答えは一つしかないの…だからちゃんと順番を覚えて計算するだけ…」


「本質的な問題は…ここですよね! 何処がずれてるのか考えてみたんですけど…」
と、言い続けた彼女の言葉と母親の言葉が頭の中で融合し昇華(しょうか)されていく…
スタッフから持ち上げられてくるすべての結果・見解・結論に彼女の言葉が読みとれた。



翌週に彼女は会社に戻って来た…小さな紙袋を抱えて戻って来た。
スタッフひとりひとりの机にその小さな紙袋から更に小さな紙袋を出し置いていった。
幾種類の“のど飴”を一個ずつ詰め合わせた“スペシャルサプリ”だった。
個別に挨拶を終え…私の席にやって来た彼女はちょっとだけ困った顔をしながら

「もう大丈夫です! 風邪…気を付けて下さいね… 仕事…何からやりましょうか?」


「この報告書、目を通してみてください…“ずれて”いないか…をね!」


…と、山積みの報告書を彼女に渡す…

「一応、目を通しておいたけど…笑えるよ…多分…誤字脱字のチェックがメインかな」

そう言いながら…変わりに受け取った“スペシャルサプリ”の一つをいただきながら…



「え? あっ、はい! 判りました!!」

席に戻った彼女は自分の机…パソコンの隣にちょこんと置かれた小さな“サボテン”の鉢に気付き
一瞬だけこちらを振り返り…ちょっとだけ袖をまくり…仕事に取り掛かかりました。



 



【episode】(エピソード)
サボテンの“棘”(とげ)とは…もともとは“葉っぱ”だったものが厳しい環境下で生き抜く為に
その機能を凝集(ぎょうしゅう)させ…転化(てんか)…代化(だいか)…させた姿です。 僅(わず)かな水分しかない環境の中で
生き抜く術を見つけ…その体内に脈々と水を含む姿…に私はいつも感動を覚えています。